ハイジア 『新宿学』 −新宿を知る−

江戸時代 宿場町として誕生して以来 時代を先取りして発展してきた「新宿」のまちの今昔そして未来についてハイジア「新宿学」と名付けたパネル展と講演会を企画いたしました。今回のイベントでは早稲田大学オープンカレッジ講座「新宿学」8年間の内容と成果をもとに「新宿」について「やさしく」「わかりやすく」多様な切り口でご紹介させていただきます。

【展示】

●期 間
平成25年2月16日(土)〜3月8日(金)
●開催時間
10:00〜20:00(会期中無休・入場無料)
●場 所
ハイジア1 階・アートウォール
●パネル
「新宿」を多様な切り口で写真、地図中心にやさしく、わかりやすく紹介

【講演】

●日 時
平成25年3月2日(土) 13:00〜16:30
●場 所
ハイジア4 階研修室
●内 容
わかりやすい「新宿学」入門
●定 員
100名(申込制、定員になり次第終了)受講料無料 ・ 資料代有料

<演題&講師>

  • 「総論・統括」戸沼幸市 早稲田大学名誉教授
  • 「新宿の地理と地形」松本泰生 早稲田大学客員講師
  • 「内藤新宿の発展、鉄道と新宿」橋和雄 新宿区元助役
  • 「新宿駅周辺の大名・旗本屋敷の変遷」青柳幸人 早稲田大学元客員教授
  • 「歌舞伎町のまちづくり」戸沼幸市 早稲田大学名誉教授
  • 「新宿コマ劇場よもやま話」奥津和彦 元新宿コマ劇場支配人

主催 : 潟nイジア(東京都健康プラザ ハイジア)
共催 : 歌舞伎町商店街振興組合
協賛 : 早稲田大学エクステンションセンター
後援 : 新宿区
以下、3月2日(土) 開催“ハイジア『新宿学』講演会 ― わかりやすい「新宿学」入門”の要約より

[新宿学]@
―「開講挨拶・総論」 戸沼幸市 早稲田大学名誉教授

戸沼幸市 早稲田大学名誉教授
戸沼幸市 (とぬまこういち)

1933年青森県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。工学博士・早稲田大学名誉教授。早稲田大学芸術学校校長、日本都市計画学会会長、世界居住学会(EKISTICS)副会長などを歴任。国土交通省、東京都、新宿区などの都市計画プロジェクトに多数参画。2004年より早稲田大学公開講座『新宿学』を担当、新宿の歴史を探るとともに新宿再開発の提言を行う。現在、新宿研究会会長、新宿区都市計画審議会会長ほか。

「新宿に、青春の門から入り、朱夏の時を過ごし、今、玄冬に向かう私自身の白秋の峠から新宿のまちの風景を眺めつつ、自分史に重ねて『新宿について、新宿の場所の力について考えてみたい』というのが『新宿学』を始めた私自身の動機であった。そしてまた、永年多くの都市・地域計画に関与してきた私の立場から、都市・地域学研究のアプローチ、方法論を『新宿』を対象にして典型的に提示してみたいという意図がこれに重なっている。」

早稲田大学オープンカレッジ講座の一つとして平成16(2004)年春に、この『新宿学』は始まり、これまで足掛け8年、160回の講義を重ねてきた。これまでの講師は、余人をもって代え難い『新宿人』たち、彼らにある新宿に対しての「愛」といってもいいほどの思い入れと、延べ5千人からの受講生がこの人々と出会ってヨコ糸になってクロスし、新宿とは何か、何処へ向かうのかと議論を重ね、「まち歩き」をする。まちに出てみれば、そこに大小の出会いの空間が、路上や地下や空中にあり、大都市の中にヒューマンなお気に入りの小空間を発見する。『新宿学』では、新宿のまちの発展を歴史的、文化的に位置づけ、地理地形や都市利用、都市計画の要素を視野に入れながら、そこで展開された人々の営為をさぐり、まちの未来を探求してみようというものである。

[新宿学]A
―「新宿の地理と地形」 松本泰生 早稲田大学客員講師

松本泰生 早稲田大学客員講師
松本泰生 (まつもとやすお)

1966年静岡県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。工学博士。戸沼幸市教授の下、都市景観・都市形成史研究を行う傍ら、90年代からの東京の階段を訪ね歩く。現在、早稲田大学理工学術院客員講師、埼玉大学・尚美学園大学講師(共に非常勤)。

東京都心は武蔵野台地の東端部にあり、新宿区は東端の崖線のわずか西寄りに位置し、神田川などの河川が谷を刻んだ、いくつかの高台と低地からなる。新宿区は主に、神田川とその支流によって浸食され、これによって牛込台地、四谷台地などの台地と神田川流域の低地が形作られている。

都心の高低差は5〜20m程度ではあるが、近年はこのような微小なスケール感を遥かに超える超高層ビルが増え、新宿区内でも谷地などの小さな地形が見えなくなり、認識することは難しくなった。また、急傾斜だった斜面も、場所によっては暖傾斜化されたり、ひな壇状の宅地にされた。ビルや建築物の増加、高密度化は、空の広がりの減少も意味しており、見通すことができる距離の減少にも繋がっている。現在では、このように、もともとの地形の様子を直接見ることはできなくなってしまったが、一方で、道路網など都市構造面からみても、昔の街道が現在も幹線道路として機能していたり、低湿地で未利用だった場所が逆に新しい幹線道路になったり、昔流れていた川が暗渠となって、その上に生活道路が作られることで川筋の痕跡が残されていたりと、そこここに江戸時代の町や村の骨格が見え隠れしている。そこには『地霊』ともいうべきものがあり、現代に至るまで、新宿のまちの移り変わりに影響を及ぼしているかのようである。

[新宿学]B
―「内藤新宿の発展、鉄道と新宿」 高橋和雄 新宿区元助役

高橋和雄 新宿区元助役
高橋和雄 (たかはしかずお)

1938年東京都生まれ。早稲田大学理工学部土木学科卒業。東京都建設局道路建設部長、新宿区助役などを歴任。現在、財団法人新宿未来創造財団評議委員、国分寺市湧水等保全審議会委員、新宿研究会副会長。

徳川家康が江戸に幕府を開いてから百年になろうとする1697年、浅草安部川町の名主・高松喜兵衛ら浅草の商人が、幕府に対して、甲州街道の江戸と高井戸宿の間に『新しい宿場』を設置したいと願い出た。1698(元禄11)年、幕府は高松喜兵衛らの願いを受け入れ、金5600両を幕府に上納するという条件で、『新しい宿場=新宿』を設けることが許可され、甲州街道の南側については内藤清成に与えた高遠内藤家の屋敷地を、北側については二五騎与力組旗本などの屋敷地を取り上げてあて、こうして“内藤新宿”は誕生した。

内藤新宿が開設されたことによって、品川、板橋、千住と合わせて、「江戸四宿」と長い間言われた宿場が揃った。しかし、江戸幕府開設より百年、浅草の商人たちが上納金5600両を支払い、宅地造成の費用までも負担して、幕府などお上の御用の人や物を運搬するための宿場をなぜ設置したのであろうか。本当の狙いはなんだったのか。

この頃、江戸で遊女商売をすることが認められていたのは、遊郭として認知されていた吉原だけであった。しかし、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿、そしてこの後発となる甲州街道の内藤新宿では、客に給仕することが建前の飯盛女が、実際は遊女商売をしていて、これが大変な賑わいを見せる。
このことは、吉原にとっては大変困ったことであって、客や遊女を横取りしてしまう江戸四宿は、憎き商売敵となっていた。このため、吉原は幕府に対して度々江戸四宿での遊女商売を取り締るよう願い出ている。後発で歴史の浅い、また幕府にとっては交通政策上の影響が少なかった内藤新宿は、とくに取り締りの対象となり、一時は廃宿に追い込まれるが、時代や幕府の財政事情による背景の中で復活した。

大正初期、甲州街道の大木戸から追分までの約1キロの両側に江戸時代以来の宿場を思わせる妓楼53軒が町屋の間に点在していた。一方、江戸時代以来の内藤家屋敷跡は明治5年大蔵省の農事試験所となったが、その後、明治12年からは宮内庁所管の「植物御苑」となり、明治38年日露戦争の勝利を記念して、ここで凱旋将軍の歓迎会が行われ、以来「新宿御苑」と呼ばれるようになった。大正天皇になって、大正6年からは観桜会も観菊会もこの新宿御苑で行われるようになり、新宿御苑は、皇室のパレスガーデンとして外交官や日本の高官が集まる庭園となった。この新宿御苑に近接する街道沿いに妓楼が点在する光景が、都市の有り様としても、パレスガーデンへのアクセス道路としても、品性に欠けるとして、大正7(1918)年、警視庁は貸座敷(妓楼)53軒に対し、新宿二丁目の牛屋の原跡地へと移転命令を出す。大正10年の「新宿大火」によって全消失、しかし翌大正11年には53軒の貸座敷すべてが再建を終え開業、ここに「新宿遊郭」は誕生する。
以来、関東大震災を経てもなお繁盛した「新宿遊郭」も、終戦後のGHQによる「公娼制度廃止」の覚書、一方で警視庁は都内の集娼地域を指定し特殊飲食店として営業を認め、遊郭であった新宿二丁目は吉原、洲崎とともにこの指定地域に入れられ、ここを地図上で赤線で囲んだことから、公認の私娼地域を総称して『赤線』、公認されていないもぐりの私娼地域を『青線』と呼ばれることとなる。この『赤線』の中では、特殊飲食店として風俗営業の許可が与えられ、女性の自由意志による売春が黙認された。

新宿二丁目の『赤線』、新宿の『青線』は三光町と花園町一帯、新宿二丁目の小町通り、歌舞伎町東寄り一帯の三地域、『青線』では売春行為は公的には認められておらず、非合法のため性病の対策も取られていなかったため、警察はしばしば手入れを行った。買春する男性側をも罰するのか否か国会の議決が得られず頓挫してきた売春防止法も、売春する女性側を罰する片罰の立場に立つ売春防止法が昭和31年議決、昭和33年4月完全施行適用され、これとともに新宿の赤線、青線は姿を消すが、その後、売春は風俗営業へと形を変え、新宿二丁目の方から歌舞伎町へと進出し、東側から徐々に歌舞伎町を変質させていくこととなる。

「新宿」が江戸時代の宿場町として誕生して以来三百有余年、その、様々な変遷を重ねての発展、繁栄を続けてきたその陰には、常に『性』による「風紀の紊乱」に対する行政当局の苦悩と、貧しい農村で育った若い娘たちの幾多の苦しみと犠牲があったことを忘れることは出来ない。

[新宿学]C
―「新宿駅周辺の大名・旗本屋敷の変遷」 青柳幸人 早稲田大学元客員教授

青柳幸人 早稲田大学元客員教授
青柳幸人 (あおやぎゆきひと)

1933年山梨県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。住宅・都市整備公団理事、早稲田大学客員教授などを歴任。現在、新宿研究会副会長。

今日の新宿というまちを見渡したとき、その目に写る姿として、新宿駅、西口の超高層ビル群、伊勢丹・旧三越、新宿御苑などがあるが、それらの敷地は江戸時代の大名・旗本屋敷の跡地である。安政3年時に、43大名、52ヶ所余り、この面積は新宿区域面積の14%に相当する。また旗本屋敷などの用地を加えると、旧牛込・四谷区の区域では、過半は武家用地であった。『新宿学』では、新宿区内における、これら大名屋敷・武家用地などの跡地利用の変遷を調査している。

歌舞伎町一丁目、新宿コマ劇場ほかの地域は、江戸期は御手先組石川将監、明治期は大村伯爵邸から尾張屋銀行の峯島家へ、昭和になり第五高女(富士高校の前身)から現在の東宝所有地へという変遷、同じく歌舞伎町一丁目、江戸期寄合久世三四郎広義が明治期は大久保避病院、高橋鉄工所他、昭和期に大規模病院他、現在の大久保病院、ハイジア、旧職安など。同じく歌舞伎町一丁目、江戸期寄合本多対馬守が大正期宅地・畑から昭和期に浅田銀行他へ、ここが現在のゴールデン街、東京電力変電所になっている。
内藤新宿の名の由来ともなっている内藤家、江戸初期以来今日まで新宿に住み続け、その名も内藤町として、まちの歴史に深く刻み込まれている。内藤家以外、旧大名家は、同じ場所に住み続けていない。内藤家が広い屋敷を徳川家康から拝領したのは1590(天正18)年だった。内藤家は、この屋敷を中屋敷として利用していた。上屋敷は現在の神田小川町に、下屋敷は現在の恵比寿ガーデンプレイスのところにあった。家康から拝領した当初は約二十万坪(約66ha)と言われている。その後、内藤新宿の宿場用地、百人組与力大縄地などとして幕府に返上し、明治維新時はその半分以下になっていたと推測される。内藤家の屋敷の大部分は、明治5年、国へ上地されたが、その際、屋敷の東側の一部に内藤家の邸宅や神社を残すことができた。政府は上地された土地とその周辺の大名・旗本屋敷跡地などを加えて、約58.3haを、農業振興の役割を目的とした内藤農事試験場とした。これが後の新宿御苑である。
その跡地は新宿というまちの骨格となる施設として今日行き続けている。

[新宿学]D
―「歌舞伎町のまちづくり」「総括」 戸沼幸市 早稲田大学名誉教授

戸沼幸市 早稲田大学名誉教授

歌舞伎町地区(角筈)は健全まで木造家屋の密集した住宅と焦点の混合の裏町であったが、昭和20(1945)年5月の大空襲により一部を除き壊滅的な打撃を受けた。戦後、間髪を入れず、この角筈地区の町会長であった鈴木喜兵衛は、戦災復興計画に際し、戦中に書きためていた一つの計画案を地元に示し、地元を説き、地区住民をまとめて新しいまちづくりに情熱的に取り組む。戦後混乱期、廃墟と化した都市の再建を目指し、各地で華々しい帝都復興の計画案をつくっても本体の事業は遅々として進まない中、歌舞伎町の戦災復興計画とその事業は見事なものであった。
終戦を迎え、鈴木は、借地権の問題に短期間で見通しをつけ、地主や東京都建設局都市計画課課長・石川栄耀の賛同を得て復興協力会を開催、「道義的繁華街」を建設するという趣旨を明らかにした。復興計画を官の側から支えた石川栄耀は、当時、都の戦災復興を担当していた。石川は、戦前から熱心に、都市における盛り場の重要性を強調しており、そこには、今日の性風俗産業に代表される享楽的機能の必要性も述べている。また、「歌舞伎町」の名も、後に頓挫したものの、計画当初からあった歌舞伎劇場「菊座」誘致を目指したことから、石川が命名したものである。
石川はのちに早稲田大学土木学科で「都市計画」を講じたが、よく教材に歌舞伎町を取り上げ、昼だけではなく、このまちの夜も学生に学ばせていた。歌舞伎町の空間計画の特徴は、噴水のあるヒューマンスケールな広場を中央にとって、その周りを劇場街が取り囲むというものであった。また通常の格子型の街区割に加えて、T字型の街路を配し、まちに迷路性を与え、来街者の回遊行動をうながし、ふところの深いまちを演出している。
その後の、成熟から爛熟、内部崩壊を経て、平成13(2001)年9月1日、ギャンブル系、性風俗系を含む多数の店がぎっしりと詰まったこのまちの典型的雑居ビルに火災が起こり、四十四名死亡の大きな事故が起きた。歌舞伎町は防災、防犯上、最悪の状況を迎えていたのである。
こうした経緯を踏まえ、現在、風俗産業の氾濫、賃借問題の錯綜、犯罪の多発といった問題に危機感を抱く歌舞伎町商店街振興組合により、復興計画のコンセプトだった『道義的繁華街』に立ち返り、まちづくりを見直していこうという動きが盛んに見られるようになっている。新宿という場所に、世界で有数の大人の盛り場として一時代を築いた歌舞伎町ではあったが、鈴木喜兵衛たちの目指した「道義的繁華街」とは何かを、改めて問い直すべき時期がきていたといえる。

「歌舞伎町というのは(光と陰が)両方ですからね、暗いイメージと明るいイメージがあって、これからの歌舞伎町には興行の場所があるわけですが、これについてはむしろディスカッションの分野ですが、繁華街から歓楽街となって、暴力的なものを排除しながら、しかもどういうお客さんを相手にというところの筋書きが、例えば鈴木喜兵衛は『道義的繁華街』という言い方をしているんですが、石川栄耀さんなんかは世界の盛り場の研究をしている。ある種の色気、ある種の猥雑性、ある種の“安全の中の危険”というような、わくわくするようなところが世界中の盛り場の中にある。男女の付き合いで独特なルールでこういうふうなものがいろいろある、というような盛り場のあり方の中で、これは役所がというより地元の人が、どういう店構えをしてやるかということを、まちとして出してくれるとうれしいなと思います。歌舞伎町ルネッサンスのこれからは、どういう形にすればいいかという意味で、まったくの変局点で、私自身も興味深く見ている。」と戸沼氏。